院長紹介
プロフィール
略歴
1984年 鹿児島大学歯学部卒業
1984年 福岡市タクボ歯科医院勤務
1987年 国際デンタルアカデミー卒業
1987年 池田歯科医院開設
1990年 日本カイロプラクティック協会認定医
2001年 国際顎頭蓋機能学会認定医
2005年 国際口腔インプラント学会認定医
2005年 池田歯科 大濠クリニック開設
所属団体
国際顎頭蓋機能学会 |
日本顎咬合学会 |
治療技術セミナー主催
ニューロマスキュラー咬合セミナー |
ボンディットレストレーションセミナー |
論文 雑誌投稿
「健康で美しく快適な歯列を求めて」 |
「長期経過症例に学ぶ審美修復」 |
池田正人院長が自分の過去を語る
生まれ
昭和33年、時は日本が高度成長期へ移行し始めたころ、博多山笠の祭りがおこなわれる櫛田神社の近く、万行寺(現在の地名は冷泉町)というところで産声を上げたそうです。
4~5歳のころ、水法被を着て子供山笠を担いでいる写真がありますので、なにを隠そう「生粋の博多っ子」と言っても決して過言ではないはずです。
しかしもの心ついてからは山笠に関心を持つことはなく、担いだことも見物したこともありません。
当時、父親は万行寺で理容店を営んでいて、母親もお店の手伝いをして何人か職人さんも雇っていたらしいです。
両親は毎日、お店のお客さんの相手で忙しくしていたため、小さかった私はいつも両親というよりもお店の若い衆に遊びの相手をし てもらっていたみたいです。実際、私の記憶の中をどのように探しても両親と遊んでもらった記憶が出てこないのです。
それだけ、両親は仕事に精一杯だったのでしょう。何事にも妥協の嫌いな私の父親の性格からすれば容易に想像がつきます。
幼稚園・小学校
父親が35才の時、仕事の無理がたたって体を壊し肺結核にかかってしまいました。
幸いストマイシンの投与で事なきに至りましたが、これまでのような理容業は続けられなくなったために、お店を他人にゆずり中央区の今川というところに転居してきました。
父親は宅地建物取引業の免許をとり、自宅の一角に小さな事務所を構え、いわゆる不動産屋さんへと転業しました。私は幼稚園の年中さんの年齢でしたので、2年保育で近くの浄和幼稚園に入園しました。
このときに園長先生の井浦先生がまだ20代で、担任をしていただきました。
わたしは井浦先生と発音できずに「ゆーラン先生」と呼んでいたと記憶しています。ゆーラン先生は現在も浄和幼稚園の園長先生をしておられ、かれこれ15年ほど前に治療させていただいたのをきっかけに、いまでも池田歯科の定期来院者としてメインテナンスをさせていただいています。昔お世話になった方に、歯科医としてお返しをさせていただく機会があることは幸せなことと思っています。
小学校に入ってからは、ふつ~の子供でした。クラスの友達と野球のチームを作って放課後に試合をしたりして遊んでいました。阪神の田淵選手などがホームランバッターで憧れていました。みんながユニホームに思い思いの背番号をつけて野球に集まるようになり、自分もユニホームがほしくてたまりませんでしたが、一日 10円のお小遣いでは到底買うこともできず、ずいぶん我慢していましたがある年のクリスマスに背番号22(当時の田淵選手)のユニホームを買ってもらった時には、本当にうれしかったです。
ユニホームを着て寝たことがあります。当時の我が家はお金に余裕がなかったこともあり、子供がほしいものがあってもなかなか買い与えてもらうことができませんでした。
半年くらいは、今もっているものを工夫して使いながら辛抱させられるのが常でした。でも、そのことは子供の私でもそれが当然のことと思っていましたし、すぐに何でも自分の思い通りにはならないので、目標を持ち辛抱して目標に近づくように努力することを教えられたと思っています。
中学時代
小学6年の終業式の後、中学入学の前に私たちは今川から城南区の茶山というところに転居しました。私は城南中学校に入学、弟と妹は城南小学校でした。
城南は小、中、高が3つ並んで建っているため、私立の学校と思っている人もいるくらいで、公立にしては成績もよく、品行方正な生徒の多い人気の学校区です。この中学には私の後の人生に大きな影響を与えることになる軟式テニス部との出会いが待っていました。スポーツが好きだった私は、すぐにテニスという英国の紳士のス ポーツに関心を持ち、入部しました。
当時の城南中学は、いわゆるマンモス校で1学年14クラスもあり、テニス部の1年生部員だけで70名ほどが入部しました。1年生はテニスコートに入ることもできず、毎日玉拾いとランニングだけの日課でした。
特にランニングは城南中と城南小学校の周りを延々と2時間くらい走らされ、へばって歩いていると2年の先輩がどこからともなくあらわれ、「貴様ら走らんか!!」とラケットをふりあげられ怖い思いを したこともあります。また、走れ走れに根負けした部員たちは、次々に退部してい き、はじめ70人の部員は夏には30人へ、3年生が抜けた後の秋には10人位へと減っていきました。
私たちが入部した年のテニス部の顧問の先生は、当仁中から新しく赴任してこられた山崎先生でした。山崎先生は中学生の指導にかけては右に出るものがいないというほどのカリスマ女教師で、特にテニス部の部員にとっては毎日の球出しから、選手としての心構え、試合運びの妙まで教えていただき、知らぬ間に城南中テニス部の実力は伸びていったようでした。山崎先生が赴任2年目の年から、中体連の福岡県大会を5年連続優勝したのは後にも先にも城南中テニス部だけだと思います。そのテニス部のなかで1番手を務めていたわたしは、幸運にも夏の大会のあとの西日本新聞社主催の全九州中学生軟式テニス大会にて、ダブルスの個人戦でも優勝することができました。次の日の西日本新聞には結構大きな見出しと写真入りで紹介されたのを覚えています。
このことは、私にとって大きな自信となり、その後の人生で幾度の試練にぶつかった時にも、心のよりどころとして頑張れたのも、このおかげだと思うことが多々ありました。
その時のテニス部仲間とは今でも一番付き合いがありますし、困ったときに相談に乗ってくれるのも彼らです。山崎先生はその後、校内暴力の嵐が吹き荒れる城西中へと白羽の矢がたち、あっという間に学校の秩序を回復されたという逸話もある先生です。その山崎先生も10年以上前から池田歯科でお世話させていただいており、ここでも歯科医としてほんの少しでもご恩返しができることを本当にうれしく思います。
高校時代
中学時代テニス一筋の私は、高校進学においてもテニスが強くたくさん練習ができる高校ということで、自宅からも近い城南高校を選択しました。城南高には城南中の先輩部員もいたため、私は合格発表の次の日からテニスコートに立ってボールを打っていました。私は九州大会優勝選手ということもあり、新入生ながら 3年生のレギュラー選手にも簡単に土をつけてしまうほどでした。しかし、軟式テニスはダブルス3チームの勝敗を競う団体戦が主流で、一人だけ強くても勝ち上がっていくことはできません。3年で自分が部長となってからは特に、チーム編成とか選手の技術指導、やる気のない部員にペナルティーを科すことなど、選手たちの上に立ち、チームをまとめ、引っ張っていくことの難しさをいやというほど知らされたのはこのころです。
その経験は歯科医院を開業してからも役に立っていると言いたいところですが、今でもやはり難しい課題の一つです。
浪人・大学時代
高校3年の夏までテニスに明け暮れていましたから、受験勉強は夏休みの終りころからのスタートでクラスの友人たちからはかなり後れをとっていました。しかし、部活で鍛えた体力と根性はありましたから、秋の実力試験では学年400人中の10番以内に食い込み、担任の先生に九大工学部は確実だと太鼓判をおしてもらいまし た、、。
ところがふたを開けてみると見事不合格で、やはり底力が足りなかったのだとあっさり納得し、地元の予備校である九州英数学館に通い始めました。この予備校は福岡の中心部天神に位置していたため、高校の部活と受験勉強中心の堅苦しい生活は一変し、一応予備校へは行くものの友人に声をかけられるや、そそくさと近くの喫茶店やパチンコ店へ入り浸りの日々が始まりました。学費を出してくれた両親には申し訳ないのですが、まさにバラ色の浪人時代というものでした。大学受験は1期、2期校と別れていた最後の年の受験にあたりました。受験勉強ばかりしていたわけではありませんでしたが、それが目的の1年間でしたので、まあそれなりに九大工学部は間違いないだろうというくらいのところで、受験校を絞りこんでいたところ、父親の「正人は歯学部に行ったらどうか?」という一言が私の耳に飛び込んできました。
それまで自分が歯医者になることなど想像したこともありませんでしたが、やはり父親が子供の適性を見る目はたいしたものだと、実際に歯医者になってから関心したものでした。
当時の歯医者さんはどこも大繁盛で高収入が保障されていましたし、自分の虫歯の治療の体験からとても人の役に立つ仕事だと思っていましたので、親の勧めに従い、その年に歯学部を新設した鹿児島大学を受験しました。運よく入学を果たした後は、卒後のことなどこれっぽっちも考えずに、またまたテニス部に入部し、鹿児島の灼熱の太陽に焼かれながら後ろか前か分からないほどに日焼けした生活が始まりました。
大学のテニス部は本学の体育会でしたので、練習などは半端ではないほどきつく、コンパでは死ぬほど焼酎を飲まされ、ここでも人生を生きていく上での基礎を叩き込まれたという感じでした。幸か不幸か、練習のしすぎで肩を痛め2年生の半ばで体育会テニス部を退部することになり、その後のテニス人生は歯学部のテニス同好会程度で現在ものんびりゆっくりやっています。
さて大事な歯学部の勉強ですが、鹿児島大学歯学部は80人の入学者のうち卒業は50人だけというとても信じられないくらい、教育熱心な教授たちのおかげでみごと国家試験をパスしました。学生の時はどこにでもいる遊びに熱心な生徒の一人でしたが、臨床実習が始まってからは勉強も面白くなり、6年生になってからは「歯界展望」という臨床雑誌を定期購読しては、そこに出てくる著名な臨床家に憧れるようになっており、自分もそうした素晴らしい仕事がしたいと思うようになったのはこのころです。
歯科医として
昭和59年に大学を卒業し、福岡の実家へ戻った私は、福岡の天神ビルで開業されていたタクボ歯科の田窪先生のところで勤務医生活を送ることになりました。田窪先生は歯内療法という歯の根(根管)の治療の分野では日本でも著名な先生の一人で、私たち勤務医も診療後に残って研究の手伝いなどをさせていただきました。この勤務医時代に歯科医としての基礎をしっかり叩き込んでもらったと思っています。常に患者さんの立場に立って、診療には絶対手を抜かない、常に最新の歯科学を勉強して取り入れていくことなどです。本当に良い先生の所へ勤務できてラッキーだったと思います。
そうして、昭和62年に池田歯科を開設したのですが、このときの診療所はいわゆる 「居抜き物件」で、前の先生がある事情のために手放された雑居ビルの2階の20坪ほどの小さな診療室でした。
当時開業の熱意と自信こそはあれ、開業資金は全くない状態でしたが、歯科材料店の社長さんに相談したところ、その社長さんが保証人となって下さり、 1000万円だけ現金を調達することが出来ました。その資金で歯科医師会の入会金やテナントの敷金や設備の譲渡金などを支払い、診療ユニットなどの機材はすべてリースとして、ほとんど無一文での開業でした。いまの社会状況ではとても考えられないことですが、ここでも私はとても幸運な形で開業医としてのスタートを切ることができたのです。
池田歯科を開業して
はじめに開業したテナントは、今の地行クリニックの2つ隣のホカ弁屋さんのビルの2階で、入口は狭い階段を上って行った所にありました。さらに良くないことには1階の階段の踊り場に毎日浮浪者が寝泊まりしており、交番所の巡査さんにお願いして退去をしてもらっても、また何日かすると別の浮浪者が寝泊まりするという最悪の環境にあったのです。医院の中はいつも清掃を心がけ清潔にしていましたが、外からは中が見えませんでしたし、はじめての患者さんは、安心して来院できる医院ではなかったようです。
さらに理想の歯科治療を目指すがために、医療者側の治療方針を押しつけ、患者さんの本当の希望や期待とは裏腹な結果を与えてしまったこともあったと思います。
その後、良い歯科治療には正しい情報提供が必要なこと、詰め物やかぶせものの治療の繰り返しではなく予防とメインテナンスを基盤にする必要があることなどに気付かされ、ニュースレターの発行や各種パンフレットの製作を行うようになりました。
もちろん常に最新の歯科医療を提供するという当初の目標は守りながら、医療者側から患者さん側へと目線を移していきました。そのような取り組みは多くの患者様に支持され、開業19年目にして福岡市中央区荒戸に最新の歯科設備を備えた、2つ目の池田歯科大濠クリニックを開設することがで きました。
池田歯科と私たちスタッフはまだまだ高い目標を持っており、新しい目標のためには努力を惜しみません。
今後も皆様に愛され信頼される歯科医院造りを行っていきますので、ますますのご理解とご協力をお願いしたいと思います。